音楽の力。

1917年―1919年板東(日本)におけるドイツ捕虜収容所の文化的生活
ベートーヴェン・ハウス ボン 特別展示会

板東のバラック式収容所

ベートーヴェン作品のコンサート

板東には石版印刷所と、ほとんどの出版物が印刷された収容所印刷所の2つがあったが、丸亀収容所で用いられ、その後板東収容所でも使用された、難しいワックス紙複写方法が用いられた。これによって多色刷りのプログラム、葉書、地図、収容所でのみ通用する切手や紙幣、本やパンフレットにも及び、印象的な仕上がりが可能になった。多色刷りの催し物プログラムは、歴史的価値ある資料として、収容所における幅広い文化活動を印象づけるものである。
32か月余りの捕虜収容所期間中に100回を超えるコンサート、室内楽、歌曲、軽音楽の夕べが催され、少なくとも21の演劇が上演されたが、その中には数回続けて上演されたものもある。捕虜たちには強制労働がなかったので、これらの活動はオーケストラ、合唱、劇など団員にとっての退屈しのぎであり、"怒りの発作"予防であったし、観客にとっても収容所生活のよい気晴らしでもあった。
楽器は彼らが中国から収容所に持ってきていたり、普通に買ったり、収容所木工所で作ったり、または日本に住んでいるドイツ人や日本軍が寄付したものであった。
プログラムの大部分は、その当時好まれていたり名の知れていたヨハン・シュトラウス、フランツ・フォン・ズッペやカール・ツェラーのウィーン・オペレッタの曲や、またベルリンのレオン・イェッセルやパウル・リンケ等、同時代のワルツやマーチ等の軽音楽であったが、オッフェンバックやロッシーニの序曲もあった。
68あるプログラム中、18のプログラムだけが厳密な意味での"クラシック"コンサートで、7つの室内楽の夕べも入っている。最後の2回は純粋にベートーヴェンの夕べであるが、他のプログラムの中にもベートーヴェンの作品が入っている。残りの11回のシンフォニー・コンサートの中には、印象的な4回のベートーヴェンの作品のプログラムがあり、他の2回のコンサートにもベートーヴェンの作品が入っている。国民的ヒーローであり巨匠であるベートーヴェンの曲を演奏することは、捕虜たちの愛国心の表現としてふさわしいものである。

1917年10月21日 『エグモント』序曲のコンサート
1917年12月9日 『プロメテウスの創造物』序曲のコンサート

神戸在住の作曲家ハンス・ラムゼガーの出席を機に、彼の前奏曲と序曲『忠臣蔵』が演奏された。これは日本では誰もが知っている有名な国民的伝説で、歌舞伎にもなり、また1907年には初めて映画化もされた。
その他にパウル・エンゲルのオーケストラがカール・マリア・フォン・ウェーバーの『魔弾の射手』とベートーヴェンの『エグモント』序曲作品84を、既に3週間前に演奏されたにもかかわらず演奏した。ベートーヴェンという名前や、プロメテウス序曲作品43ほど収容所内の健康保険のための資金として使用されたものはない。

1918年2月24日 交響曲第4番と『レオノーレ』序曲第3番のコンサート

徳島オーケストラのベートーヴェンの夕べで演奏された交響曲第4番作品60には、1910年に出版されたマックス・ヒョップスの"ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲"に基づいた解説文があり、たぶん日本初演であろうと思われる。
海軍上級二等兵曹(海軍上級二等兵曹は帝国海軍の階級)で、軍音楽家のフレンスブルク出身のヘルマン・リヒャルト・ハンセンは、M・A・K(膠州水兵砲兵隊の略)と徳島オーケストラを指揮し、ヴァイオリンといくつかの吹奏楽器をこなした。