音楽の力。

1917年―1919年板東(日本)におけるドイツ捕虜収容所の文化的生活
ベートーヴェン・ハウス ボン 特別展示会

中国膠州のドイツ租借地域

板東で印刷された総植民地地図

ドイツ帝国植民地政策上での重要な貿易地域として、極東開拓がその大きな役割を演じている。中国における2回にわたるドイツ人宣教師の殺害事件は、ヴィルヘルムⅡ世皇帝によい口実を与え、ドイツは1897年海軍基地に適した中国東海岸膠州湾を占領した。
1898年3月中国との間で、小さな漁村である青島を含めた膠州地域を99年間借り受ける借地契約が交わされた。ドイツ租借地域を守るため、帝国海軍は第Ⅲ海兵大隊を作り、海軍砲兵隊を強化して青島に駐屯させた結果、数年の内に港、貿易、大学の町として拡張し繁栄していき、人口は11年間で15,600人から55,000人へ、その内中国人以外の人口も2,500人から4,500人へと増加した。
第一次世界大戦勃発後、中国中のドイツ予備軍と志願兵が青島に集められた。1914年8月10日 イギリスと同盟を結んでいた日本は、租借地域の完全な引き渡しを要求する最後通告を発した。その結果数週間に及ぶ戦闘。まず局地的戦闘。10月末からは60,000人におよぶ日本包囲軍の猛攻撃を受け、1914年11月7日、ドイツは降伏し約5.000人のドイツ兵が捕虜となった。植民地となってからちょうど16年後のことである。

青島とその周辺の軍事防備施設(朱印)地図