板東のバラック式収容所
捕虜生活の終り
ここでは捕虜たちの帰国に際しての記録を見ることができる。間近に迫った出発を待ちつつ1919年9月、最後の"バラッケ"が発行された。
日本政府は、捕虜帰国用の6隻の貨物船を見つけるのに年末までかかった。 板東の捕虜たちの乗った"豊福丸"は、12月30日神戸を出港し、56日後の1920年2月24日、ヴィルヘルムハーフェンに接岸した。
収容所印刷所の器具類は船に持ち込まれ、船内で6版の"ディ・ハイムケア"(帰国)という雑誌が発行されたが1920年1月8日にこの地図付録として付いていた。アントン・ミュラー水兵は、その時点までのルートは赤印で、その後のルートは鉛筆で書き込んでいる。 船の中では歌曲の夕べが催され、そのプログラムの中には、フリードリヒ・ジルヒャー(夜に寄せる聖歌)が男声合唱用に編曲したピアノ・ソナタ"熱情"作品57のアンダンテ楽章もある。
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1920年2月1日 歌曲の夕べ
1960年代に入って、当時の捕虜と板東の住民との交流が復活し、1972年には収容所跡に"鳴門市ドイツ館"が博物館として設立された、記念館 及び博物館として設立され、1993年からはより大きな新しい建物で展示品が展示されている。毎年行われる催し物のクライマックスが、1982年から6月1日に記念演奏されているベートーヴェンの交響曲第9番である。