中国膠州のドイツ租借地域
ドイツ帝国植民地政策上での重要な貿易地域として、極東開拓がその大きな役割を演じている。中国における2回にわたるドイツ人宣教師の殺害事件は、ヴィルヘルムⅡ世皇帝によい口実を与え、ドイツは1897年海軍基地に適した中国東海岸膠州湾を占領した。
1898年3月中国との間で、小さな漁村である青島を含めた膠州地域を99年間借り受ける借地契約が交わされた。ドイツ租借地域を守るため、帝国海軍は第Ⅲ海兵大隊を作り、海軍砲兵隊を強化して青島に駐屯させた結果、数年の内に港、貿易、大学の町として拡張し繁栄していき、人口は11年間で15,600人から55,000人へ、その内中国人以外の人口も2,500人から4,500人へと増加した。
第一次世界大戦勃発後、中国中のドイツ予備軍と志願兵が青島に集められた。1914年8月10日
イギリスと同盟を結んでいた日本は、租借地域の完全な引き渡しを要求する最後通告を発した。その結果数週間に及ぶ戦闘。まず局地的戦闘。10月末からは60,000人におよぶ日本包囲軍の猛攻撃を受け、1914年11月7日、ドイツは降伏し約5.000人のドイツ兵が捕虜となった。植民地となってからちょうど16年後のことである。
丸亀の寺社内の仮設捕虜収容所
約4,700人の運送可能な捕虜(その中には400人の"エリザベス女帝"号の優れたオーストリア・ハンガリー人乗組員が含まれている)が3隻の貨物船で各々3~4日の航海で日本に送られた。皆、戦争はそれ程長くは続かないであろうと考えていたので、捕虜たちは仮収容所として公共の施設や寺社の建物に宿泊させられた。その寺社の1つが丸亀にあり、他の2つは松山と徳島にあった。
写真はその寺院と伝統的な日本の畳の部屋(寝室、居間、食事をする部屋、各々を
1つの部屋で行う)である。
夜の睡眠時:床の上に敷かれた畳の上に寝る。また、家具は天井まで引き上げられた。
捕虜たちは働く必要がなかったので、身体的、精神的な活動をすることができた。
ヴァイオリニストであるパウル・エンゲル指揮の丸亀楽団の演奏会や、室内楽の夕べ等の催しがあった。
ヴァイオリニストであるパウル・エンゲル指揮の丸亀楽団
丸亀の寺社内の仮設捕虜収容所
丸亀 寺社収容所での音楽
1917年2月18日の室内楽の夕べ ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ『春』作品24
第1回目のシンフォニー・コンサートのプログラムと解説があるが、そこにはベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19も載っている。補足として、ベートーヴェンが弟子のルドルフ大公のために入念に書き込んだソロパートや、楽章のカデンツを見ることができる。
板東のバラック式収容所
早期の終戦が期待できなくなり、また外交視察官から収容環境に対する不十分さを批判されるなどしたため、12箇所の暫定的な収容所は徐々に取り壊され、それに代り久留米、名古屋、習志野、青野ヶ原、似の島、そして板東の6ヶ所に大規模なバラック式収容所が建設された。1917年4月には、四国の3ヶ所の収容所である丸亀、松山、徳島から合わせて約1,000人の捕虜が、板東(県庁所在地徳島から約12kmのところにあり現在の鳴戸市にある)に移された。
1919年4月1日 当時の板東収容所地図 ヨハン・ヤコビ所蔵
収容所長は、既に徳島収容所長としての実績があった松江豊寿であった。彼は収容所を人道的な偏見のない考え方で運営し、捕虜たちに様々な活動を許可し、彼らのために農業用地や運動場としての土地を借りたりした。これは板東が国際港のない島の中にある辺ぴな片田舎にあり、他の収容所の様な脱走を警戒する厳しい立場をとる必要がないことにもよる。
その結果、そこに住む日本人との交流が行われ、日本政府は板東を"模範収容所"とした。また、久留米と名古屋にはオーケストラが、習志野には弦楽オーケストラがあった。また、すべての収容所には印刷所があった。
板東のバラック式収容所
1918年8月に久留米から移送された90人の捕虜たちのために、板東収容所の"案内?も印刷された。
広げてある地図は収容所の道順で、数字が書かれた建物の説明がついている案内書である。
南西には、捕虜たちが手仕事で作った品物や食料品、嗜好品等、各種の違ったものを売る小屋が建ち並ぶ(タパウタウ地区、青島の商店街の名前からつけたもの)一角があった。
案内には、収容所の音楽グループや演劇の演目等が載っていて各々45人編成の徳島オーケストラとエンゲル・オーケストラ、2組の吹奏楽団と各々60人編成の2組の合唱団があった。
収容所内音楽パビリオンでの徳島オーケストラと指揮者ヘルマン・リヒャルト・ハンセン
M・A・K(膠州水兵砲兵隊)吹奏楽団と指揮者ヘルマン・リヒャルト・ハンセン
徳島オーケストラと合唱団 ヘルマン・リヒャルト・ハンセン
板東のバラック式収容所
ベートーヴェン作品のコンサート
板東には石版印刷所と、ほとんどの出版物が印刷された収容所印刷所の2つがあったが、丸亀収容所で用いられ、その後板東収容所でも使用された、難しいワックス紙複写方法が用いられた。これによって多色刷りのプログラム、葉書、地図、収容所でのみ通用する切手や紙幣、本やパンフレットにも及び、印象的な仕上がりが可能になった。多色刷りの催し物プログラムは、歴史的価値ある資料として、収容所における幅広い文化活動を印象づけるものである。
32か月余りの捕虜収容所期間中に100回を超えるコンサート、室内楽、歌曲、軽音楽の夕べが催され、少なくとも21の演劇が上演されたが、その中には数回続けて上演されたものもある。捕虜たちには強制労働がなかったので、これらの活動はオーケストラ、合唱、劇など団員にとっての退屈しのぎであり、"怒りの発作"予防であったし、観客にとっても収容所生活のよい気晴らしでもあった。
楽器は彼らが中国から収容所に持ってきていたり、普通に買ったり、収容所木工所で作ったり、または日本に住んでいるドイツ人や日本軍が寄付したものであった。
プログラムの大部分は、その当時好まれていたり名の知れていたヨハン・シュトラウス、フランツ・フォン・ズッペやカール・ツェラーのウィーン・オペレッタの曲や、またベルリンのレオン・イェッセルやパウル・リンケ等、同時代のワルツやマーチ等の軽音楽であったが、オッフェンバックやロッシーニの序曲もあった。
68あるプログラム中、18のプログラムだけが厳密な意味での"クラシック"コンサートで、7つの室内楽の夕べも入っている。最後の2回は純粋にベートーヴェンの夕べであるが、他のプログラムの中にもベートーヴェンの作品が入っている。残りの11回のシンフォニー・コンサートの中には、印象的な4回のベートーヴェンの作品のプログラムがあり、他の2回のコンサートにもベートーヴェンの作品が入っている。国民的ヒーローであり巨匠であるベートーヴェンの曲を演奏することは、捕虜たちの愛国心の表現としてふさわしいものである。
1917年10月21日 『エグモント』序曲のコンサート
1917年12月9日 『プロメテウスの創造物』序曲のコンサート
神戸在住の作曲家ハンス・ラムゼガーの出席を機に、彼の前奏曲と序曲『忠臣蔵』が演奏された。これは日本では誰もが知っている有名な国民的伝説で、歌舞伎にもなり、また1907年には初めて映画化もされた。
その他にパウル・エンゲルのオーケストラがカール・マリア・フォン・ウェーバーの『魔弾の射手』とベートーヴェンの『エグモント』序曲作品84を、既に3週間前に演奏されたにもかかわらず演奏した。ベートーヴェンという名前や、プロメテウス序曲作品43ほど収容所内の健康保険のための資金として使用されたものはない。
1918年2月24日 交響曲第4番と『レオノーレ』序曲第3番のコンサート
徳島オーケストラのベートーヴェンの夕べで演奏された交響曲第4番作品60には、1910年に出版されたマックス・ヒョップスの"ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲"に基づいた解説文があり、たぶん日本初演であろうと思われる。
海軍上級二等兵曹(海軍上級二等兵曹は帝国海軍の階級)で、軍音楽家のフレンスブルク出身のヘルマン・リヒャルト・ハンセンは、M・A・K(膠州水兵砲兵隊の略)と徳島オーケストラを指揮し、ヴァイオリンといくつかの吹奏楽器をこなした。
板東のバラック式収容所
ベートーヴェン作品のコンサート
1918年2月3日のベートーヴェン室内楽の夕べでは、五重奏曲作品16の編曲であるピアノ四重奏曲の他に、"クロイツェル・ソナタ"作品47が演奏されたが、この自筆譜
を見ることができる。
1918年2月3日 『クロイツェル・ソナタ』のコンサート
ベートーヴェン自筆譜 ヴァイオリン・ソナタ 作品47 第1楽章
1918年4月14日 3曲のピアノ・ソナタのコンサート
1918年4月末、エンゲル・オーケストラは、その前年特に音楽活動の活発な久留米収容所で既に演奏されたベートーヴェンの交響曲第5番を演奏した。
久留米では、交響曲第8番が1916年に、また交響曲第7番が1919年に、各々日本初演されている。
1918年4月28日、29日 交響曲第5番のコンサート
パウル・エンゲルは収容所で音楽授業をし、週2回の収容所外での日本人生徒へのレッスンを許可された。
1860年代、アメリカ人による開国への圧力によって鎖国を解いた日本にとって、西洋は近代化への手本となり、16世紀中期にポルトガルの宣教師によってもたらされた西洋音楽も、広く深く浸透していった。
"パウル・エンゲル音楽セミナー エンゲルと日本人生徒
板東のバラック式収容所
板東における日本初演 交響曲第9番
作品125
1918年6月1日の初演より約1年前に、
頌詩"歓喜に寄す"は男声合唱に編曲されて、徳島オーケストラのプログラムに載っており、パウル・エンゲル作曲の"青島戦闘マーチ"の中にも出てくる。
1917年6月10日 交響曲第9番終楽章のコンサート
作品の全曲演奏は、"板東日刊電報通信"によると、4月3日から練習を始め5月31日には80人編成のコーラスを含めた公開舞台稽古を行った、と掲載されている。この演奏会も他のほとんどのコンサートと同じように"バラッケ
1"の"多目的ホール"で行われた。
バラッケ1の中の講演室:ここでは講演、コンサート、演劇等が行われた。
1917年6月10日 交響曲第9番終楽章のコンサート
演奏会プログラムは、1902年ウィーン分離派の美術展で初めて展示されたマックス・クリンガー作のベートーヴェンを古代神に様式化した像が、挿し絵に使用されている。クリンガー作のオリジナル像は、ベートーヴェン・ハウスの中庭にあるパビリオンの中にある。
プログラムに添えられた頌詩は、マックス・ヒョップスの分析に基づいた曲の解説がされている。交響曲についての詳細なテキストは、講演文かも知れない。それはワーグナーのベートーヴェン像で、抜粋も"プログラム?の様式もその影響を受けている。
1918年6月2日、9日付の"ディ・バラッケ"No.10とNo.11の記事
毎週(後に毎月)発行された収容所新聞"ディ・バラッケ"には、他の演奏会の時とは違って、批評ではなく2回にわたって、ペーター・シュプルツェルンの"シラー
- ベートーヴェン - ゲーテ"という題の、長い精神科学的な論文が掲載された。
その少し後で久留米と習志野の収容所でも交響曲第9番が演奏された。日本では終戦後ではあるが、9番から名付けて"第9"と呼ばれるようになったが、この曲が一般に知られるようになったのは収容所外の場所で、例えば久留米女学校などで演奏されてからである。
その後、変わらぬ人気で毎年何回となく演奏されるのは大変喜ばしいことである。
展示されている第2楽章コーダの一部のベートーヴェン自筆譜は、今日"メモリー・オブ・ザ・ワールド"としてユネスコに登録されている。
板東のバラック式収容所
ベートーヴェン作品の入った他のコンサート
1919年2月22日、23日 交響曲第1番、第5番のコンサート
1919年3月26日 ヴァイオリン・ソナタ作品30-2の室内楽の夕べ
ここでは交響曲第5番は交響曲第1番と組み合わされている。このコンサートは収容所新聞に批評が載っている。
1919年3月26日の室内楽コンサートでは、ヴァイオリン・ソナタ作品30-2が
演奏されたが、この自筆譜はベートーヴェン・ハウス・コレクションの中にある。
ベートーヴェン自筆譜 ヴァイオリン・ソナタ ハ短調 作品30-2
第3楽章のはじめの部分 ベートーヴェンは後に赤印で"la
prima parte senza repetition."(スケルツォのはじめの部分はくり返さない)と付け加えた。
板東のバラック式収容所
ベートーヴェン作品の入った他のコンサート
1919年9月28日 ピアノ・トリオ 作品11のコンサート
1919年10月19日、20日 交響曲第6番とヴァイオリン協奏曲のコンサート
終戦から約1年 - 数々の処理のため故郷への帰国が遅れ
- シベリアの苦境にいる捕虜のための数々の慈善演奏会が板東で催された。
エンゲル・オーケストラは2回目のベートーヴェンの夕べで、ヴァイオリン協奏曲作品61(ソリストはパウル・エンゲル、オーケストラはコーラスも指揮していたヴィリー・ヴェルナーが指揮)と、交響曲第6番を演奏した。
この非凡な作品の自筆スコアの他に、ベートーヴェン・ハウス収集室には、ベートーヴェンが点検し赤色で多くの箇所を訂正した初版のための写しがある。
ベートーヴェンが訂正した交響曲第6番
作品68(田園)の写しs
ベートーヴェンは1808年9月、ウィーンで彼のライプツィヒの出版社ゴットフリート・クリストフ・ヘルテルにこの写しを与えた。それは初版の原本となったもので、それには"小川のほとりの情景"の2ページにベートーヴェンが赤鉛筆で書き込んだ補足を見ることができる。1809年にパート譜が印刷され、1826年にはスコアが出版された。板東でもたぶんこの楽譜が使用されたと思われる。そのベートーヴェン版は、19世紀後半に世界中に広まった楽譜であった。
板東のバラック式収容所
他のコンサート
1919年3月、徳島に於いてエンゲル・オーケストラとの公開ドイツ・日本合同演奏会が催された。日本の演奏者はエンゲルの生徒たちだと思われる。ヴェルディの『椿姫』の抜粋と日本歌曲が演奏された。写真はエンゲル・オーケストラではなく、徳島で演奏活動をしていた徳島オーケストラと指揮者のヘルマン・リヒャルト・ハンセンである。
Public concert in March 1919
コンサートは愛国心から軍隊音楽が演奏された。例をとれば、"ヒンデンブルクばんざい"を伴ったタンネンベルク(東プロイセン)戦勝4周年記念コンサート、モルトレヒト・コーラスの協力の下、楽団マイスターのハンセンの合唱曲"勝利しなければならぬ?や、シュピールマン楽団の皇帝陛下誕生日のコンサート等である。
これらのコンサートから、13世紀から19世紀にかけての軍隊行進曲の歴史を知ることができ、ベートーヴェンの"ヨーク連隊行進曲"WoO.18もその中に入る。
板東のバラック式収容所
他のコンサート
板東町立公園の開園式には、M・A・K楽団が軍音楽家であるカール・タイケのポピュラーな行進曲を演奏した。もちろんクリスマス・コンサートもあり、1918年にはM・A・K楽団はハンセン編曲の弦楽のための"クリスマス・メドレー"を演奏した。
シュレスヴィヒがドイツに属するか、あるいはデンマークに属するかの投票に参加できるよう、1919年8月26日ハンセンは6名のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン出身の捕虜と一緒に釈放されたが、その前夜送別演奏会を催した。
また、種々の"色々な催し物のある夕べ"にも音楽グループが参加する一方で、1919年7月末の収容所新聞には"この急ぎ方は何故だ、もう少し待てるのに"というハンセンのクープレ(時事小唄)が載っている。
板東のバラック式収容所
板東の劇場
捕虜収容所では他の文化活動も行われた。広く普及したのは演劇で、特に捕虜の気晴らしには喜劇が演じられたが、プログラムには難しい劇も入っている。バラッケ1の舞台は後に作られたので、シラーの"盗賊"は野外劇で行われた。女役はもちろん男性によって演じられた。
観客は"シグナルベルク"と呼ばれていた場所に座り、舞台は湖の向こう側にある。
板東のバラック式収容所
板東の劇場
ほとんどの劇に収容所オーケストラか、またはその中の何人かが序曲や幕間音楽に参加した。その最高潮は、5回続けられたベートーヴェンの劇付随音楽、ゲーテの悲劇:"エグモント"であったに違いない。
最後の"バラッケ"に載っている舞台小道具は、捕虜たちの中の熱烈な演劇ファンによる演出や優秀さを物語っている。
収容所新聞には"エグモント"について、作品のテーマである自由な考え方とヒーローの死を、捕虜としての彼らの立場と比較しながら解説している。
批評者は収容所の状況からくる上演の不備を指摘しながらも、良い出来ばえを強調した。劇音楽の詳細な解説者は、たぶんハンセンであろう。
『エグモント』の中の"道のシーン"の舞台装置で、構想はヴィルヘルム・ブロムベルク
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの悲劇『エグモント』のための音楽 作品84のベートーヴェンが訂正した曲の写し
『エグモント』の中の"公爵夫人の部屋の舞台装置で、構想はヴィルヘルム・ブロムベルク
この写しには、楽譜の訂正のみならず、ベートーヴェンによる音楽と演劇を結び付ける台本のト書きが書き込まれている。
これはベートーヴェン自身が見出しを付けた最後の曲の出だしである:
"エグモント、財産を守れ! 愛する者を救い、私のように喜んで死ね。この言葉の後オーケストラが突然火を噴くように始まる。"
この悲劇では、音楽はドラマのひとつの根本的な構成要素となるように、既にゲーテの中では定められていた。
ゲーテは幕が下りたあと、"音楽が加わり勝利のシンフォニーと共にこの劇は終る。"と書いている。ベートーヴェンの指示は、多くの箇所でゲーテのイメージを超越している。ゲーテは"ベートーヴェンは素晴らしい才能で、私の意図するところを理解した。"と述べている。
板東のバラック式収容所
板東の劇場
レッシング作"ミンナ・フォン・バルンヘルム"のプログラムには、日本の収容所当局からの拍手禁止令が指示されている。カルデロンの哲学劇『人生は夢』では、詳しい解説テキストが出された。
1917年11月 『ミンナ・フォン・バルンヘルム』上演
1918年5月 パドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの『人夢』
上演
詩人であるエルネスト・フォン・ヴェルデンブルッフの劇も上演されたが、彼は1891年ベートーヴェン・ハウスの開館式に際して、詩を書いた人でもある。1893年5月
ボン市の偉大な息子の生誕の家を記念館とする開館式の式典で読まれ、“彼の名を呼ぶために来たのではない。/すべての人々は偉大な彼の名を知っている/私はすべての人々に教授するために来たのである/彼を一途な愛で愛することを。”
と結んでいる。
ベートーヴェン・ハウス開館式でのヴィルデンブルックの詩『ベートーヴェンの家』
板東のバラック式収容所
板東の劇場
収容所では、また素晴らしい手作りのあやつり人形を使った人形劇も上演された。
1918年3月に開催された"美術工芸展覧会"では、収容所木工所で作られた素晴らしい舞台用小道具、舞台衣装、あやつり人形等が展示された。
1918年3月 "美術工芸展覧会 "でのマリオネット人形劇
板東のバラック式収容所
捕虜収容所での展示会
1918年3月 日本語でも印刷された"美術工芸展覧会"のカタログ
板東役場は、この展覧会に公会堂とその周りの広場を提供した。捕虜たちは450点以上の展示品を出展し、そのほとんどは買ったり、追加注文をすることができた。
"絵画芸術"の部門では200点以上のパステル画、木炭画、ペン画、水彩画と数点の油絵が展示された。"手工芸"の部門では、船の模型、子供用玩具、食料品、楽器(7品展示)やハインリヒ・ティースの趣味であった動物の剥製コレクション、植物標本等、11の部門に分類された。
"植物と種子コレクション 一部ハインリヒ・ティースのものもある。
この展示会は大きな反響を呼び、19名の通訳が50,000人以上の来場者を案内し、その中には学校のクラス単位での来場もあった。
似の島の展覧会カタログや久留米の葉書からも、その他の収容所でも同様な展覧会が催されたことがわかる。
葉書は特別に収容所印刷所で印刷され、文章入りのスタンプが押されて検問を単純化し、届くまでの所要時間の縮小に役立てた。
"Art and Craft Exhibition", Bando
板東のバラック式収容所
捕虜生活の終り
ここでは捕虜たちの帰国に際しての記録を見ることができる。
間近に迫った出発を待ちつつ1919年9月、最後の"バラッケ"が発行された。
日本政府は、捕虜帰国用の6隻の貨物船を見つけるのに年末までかかった。
板東の捕虜たちの乗った"豊福丸"は、12月30日神戸を出港し、56日後の1920年2月24日、ヴィルヘルムハーフェンに接岸した。
収容所印刷所の器具類は船に持ち込まれ、船内で6版の"ディ・ハイムケア"(帰国)という雑誌が発行されたが1920年1月8日にこの地図付録として付いていた。アントン・ミュラー水兵は、その時点までのルートは赤印で、その後のルートは鉛筆で書き込んでいる。
船の中では歌曲の夕べが催され、そのプログラムの中には、フリードリヒ・ジルヒャー(夜に寄せる聖歌)が男声合唱用に編曲したピアノ・ソナタ"熱情"作品57のアンダンテ楽章もある。
1960年代に入って、当時の捕虜と板東の住民との交流が復活し、1972年には収容所跡に"鳴門市ドイツ館"が博物館として設立された、
記念館及び博物館として設立され、1993年からはより大きな新しい建物で展示品が展示されている。毎年行われる催し物のクライマックスが、1982年から6月1日に記念演奏されているベートーヴェンの交響曲第9番である。
刊記
発行者
ベートーヴェン・ハウス・ボン
Beethoven-Haus Bonn
Bonngasse 24-26
D-53111 Bonn
Deutschland
インターネット
展示会内容:
ニコレ・ケムプケン博士
ミヒャエル・ラーデンブルガー博士
翻訳:
ヤスヨ・テラシマ=ヴェアハーン
このインターネット上の特別展は、“第九と日本 出会いの歴史”(
2011 年彩流社出版、 ISBN978-4-77911-654-4 )のタイトルで日本語版の本が出版されております。
Legal notice
Publisher:
Beethoven-Haus Bonn
Bonngasse 24-26
D-53111 Bonn
Germany
Contents of the exhibition:
Dr. Nicole Kämpken
Dr. Michael Ladenburger
Photos:
Boris Goyke
Klaus Weidner